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2022年03月21日

「日本語上手ね」から気付いたこと

「私は昭和47年、1972年の11月生まれです」と
沖縄で昭和生まれの方にそう話すと「おっ、復帰っ子か」とレアキャラ扱いですが、
「いえ、復帰おじさんです」と返すのが10年前からの私の持ちネタです。

今年で50歳になる。
少なくとも平成生まれから見たら「子」は違和感を覚えると思うので「おじさん」は妥当。

50年。ありきたりだけど、本人にとってはあっという間だったが、西暦2000年で考えると40分の1を経験してきたことになる・・・計算上ね。そう考えると短くはない。

50年でいろんな”事件”もありましたが、また1年ぶりの更新なのでそのうち特に衝撃を受けた一つを―

私がRBCに入社したのは96年。2000年に出張先の北陸で自分の意識を変える大事件がありました。
予約していた小さな家族経営のようなホテルに夜8時前に到着すると70代ほどと思われる女性が出迎えてくれました。この時間に、近くで食事できる所はあるか、おすすめの食事は何かなど雑談しながら宿泊名簿を記入して提出すると、この方が私の住所を見て「あら、あなた沖縄来たの?日本語上手ね」と言いました。
驚きました。90年代前半には安室奈美恵さんら「アクターズ」がまさに時代そのものを席巻し、まだネットは普及してなかったけどTV・雑誌で「沖縄特集」が次々と組まれて沖縄に対する認知度が急速に向上してから数年後、なにより復帰からすでに28年が経過した中での一言でした。
返す言葉が出なかった。絶句してしまいました。そして「高齢とはいえ、あまりに情報不足でしょ・・」と思いました。復帰前に本土に行った方はよく「沖縄は日本語を話しているのか?」と聞かれたそうですが、まさか自分が2000年にそんなことを言われるとは・・・

しかし!なのです。私はそこに1週間滞在して取材をしていましたが、その女性が沖縄を知らないのと同じように、自分がその県のことを全く知らないことに気づかされました。その県の歴史・文化・産業から特産品や生活様式まで、ほとんど知らなかったことを思い知りました。
例えば東京や沖縄では流しているタクシーを見かけて手を挙げると停車して乗せてくれますが、北陸ではタクシーは電話で呼ぶのが基本。道端で手を挙げても止まりません(大阪で働いたことがある運転手さんが止まってくれて教えてくれました)。

【どこにでもある話】
その後もあちこちの県や、いくつかの国に取材で行くチャンスがありましたが、どこも同じような驚きがありました。原発や火山と暮らす町、雪かきが生死にかかわる村、海外でも周囲を確認してから話さないといけない国など。そしてその地域の人たちは、TVの「ケンミンショー」のように呆れ顔でこう言います「そんなことも知らなかったの?」と。
地域によって、暮らしによって「常識と呼ばれる知識」がこんなに違うとは驚きでした。とてもいい体験でした。

沖縄にいると「本土の人は5.15も6.23も知らないのか!」と思ってしまいますが、私たちも「8月6日と9日」がどっちか分からなかったりします。

【もっとショックだったのは「内」】
しかし本当に衝撃だったのは「外」より「内」の方です。県内の多くの離島に行きましたが、普段の暮らしぶりから先島の首里城に対する意識、「離島の離島」と呼ばれる島の商店の棚、大東島で見た太平洋の荒波から生まれる信じられないほど巨大な波頭まで・・・今や国内有数の120万人の都市圏である本島中南部で暮らす自分がいかに「偏った沖縄」しか知らないかを気付かされました。
そして「本土の人は沖縄を知らない」と一方的に思っていた自分がいかに不遜で、同じ”沖縄県民”の暮らしに無関心であったかを思い知らされる記者生活でした。

「あなた日本語上手ね」的な部分は誰にでもあると思います。「だから取材に来ました」が基本の記者でも、現場に行って「ここだけの話」や「大きな声では言えないけれど・・・」という話を聞いて、データを見直すと思い込みに取りつかれていたことに気づくこともしばしば。


【最後に】
今年は復帰50年でもあります。本島中南部に住む多くの県民には石垣や西表の山の美しさや迫力あるサキシマスオウの板根(ばんこん)、宮古の東平安名崎で見る地球の丸さや伊良部島から見る与那覇前浜の輝き、久米島の湿地や国頭東海岸の壮大な海岸線など県内でも見て欲しい所、そして地元の人と話して欲しいことはいっぱいありますが、県外なら宮崎の西都原考古博物館。
宮崎・西都原(さいとばる)考古博物館

チャンスがあればぜひ!
西都原(さいとばる)と読みます。そう「ばる」は沖縄だけではありません。

九州南部や東国がまだ大和の支配下にはいる前、「熊襲(くまそ)・隼人(はやと)」がいました(その呼び名に対する批判もあります)。

この博物館ではその歴史に触れ、「隼人舞」や、たしか「犬吠え(いぬぼえ)」についても触れていたかと思います。

驚きました。「日本史」では東国や南九州の古代史(と言っても8世紀ごろの話で世界史的には中国・唐とアッバース朝が中央アジアで戦っていたような時代です)は紹介されることは少ないのですが、こんな充実した博物館があるとは!

しかも、知られていない。
実は西都原には多くの古墳があり、私もそれを見に行った時にこの博物館の存在を知りました。

宮崎は「隼人」の歴史があり、島津氏との関係、福岡や熊本などの経済力のある近県の影響も大きく、「南国・宮崎」と観光に活路を見出したところに「亜熱帯の島・沖縄」が登場しという歴史です。

宮崎市から車で1時間かかりません。レンタカーの運転も無図解しところではありません。
そうそう、博物館に行く前にまず宮崎市内のコンビニで求人誌ももらって見てください。

新聞を見てもなんか「通じる」ものを感じます
https://www.the-miyanichi.co.jp/kuroshio/_60556.html

最後に復帰50周年も近いので、「屋良朝苗復帰式典での挨拶」を再掲します、
「ごく一部抜粋」が多いのですが、50年後を生きる私たちへの叱咤と期待があります。
おそらくこの先の沖縄の困難を見通しての上だと思いますが、その期待に応えられているのか、考えずにはいられませんね。
「沖縄県民にとって、復帰は強い願望であり、正しい要求でありました。また、復帰とは、沖縄県民にとってみずからの運命を開拓し、歴史を創造する世紀の大事業でもあります。その意味におきまして、私ども自体が先ず自主主体性を堅持してこれらの問題の解決に対処し、一方においては、沖縄がその歴史上、常に手段として利用されてきたことを排除して県民福祉の確立を至上の目的とし、平和で、いまより豊かでより安定した、希望のもてる新しい県づくりに全力をあげる決意であります。」



Posted by 比嘉俊次 at 13:35│Comments(0)
 
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